人生100年時代を考える前に

高齢者 自己実現

サッカーの女子アジア ・カップで、日本代表「なでしこジャパン」が連覇を達成し、来年のワールド杯フランス大会にアジア王者として出場します。

同チームを率いる高倉麻子監督は、選手一人一人の心構えが、選手のその後のサッカー人生を決めると、著書『個を生かし和を奏でる』(徳間書店)で語っています。

それは「自分が納得したい」とプレーするか、「人に認められたい」とプレーするか。

その違いは例えば、試合に出場できない時の行動に表れるとのことです。

出場できないが、 自分が納得できるまで練習する選手がいる一方、「あの子が出ているのに、なぜ私が出られないの?」という感情が行動に表れている選手がいる。

後者の場合、いつしかその選手の成長は止まってしまう、と同書で語っています。

周囲の目の代表格「年齢」

他者の評価ばかりを気にするのは、周囲の環境に、幸不幸を左右される生き方になりがちです。

そこから脱却し、自分が満足し充実できるかを基準に、日々の生活を送りたいものですね。

特に、新しい取組みを始めようとする時、「疑念」や「後悔」の感情から、迷いが生まれることがあります。

その原因となる、代表的なものの1つに「年齢」があります。

年齢を重ねるにつれ、仕事やプライベートを問わず、役割が増え、役割を果たすために考慮すべき対象が広がり、人によっては自身が仕組みを作る立場や役割になります。

また、経験を積むにつれ、情報の理解力が増すため、余計に検討や選択に掛かる時間が長くなり、なかなか実行に移れません。

これに加え、「もう○○才だから、今から始めるのは遅いんじゃないかな〜」とか、「どうして、○○才の時からやってなかったのかな〜」など、

対象そのものへの「疑念」だけでなく、(他人とも比較し)年齢とひも付けた「疑念」や「後悔」が、さらに行動の妨げとなります。

もちろん、迷うことなく、順調に邁進される方も多数いらっしゃいますが、お話を伺っている中で、かなり多くの割合の方が、以上のような傾向や口癖をお持ちであると認識しています。

そういった発言をお聞きする度に、本当にもったいないなと思います。

年齢を武器にする

有名人ではありませんが、実際に私がお会いした方をご紹介します。

自動車用のゴム素材を製造する会社を経営する、現在67歳の韓国人の方がいらっしゃいます。

100人近い従業員を抱え、経営は右肩下がりで、韓国政府の所轄官庁から表彰もされました。

日本にも拠点をお持ちのため、ご縁があって一度、現地にお邪魔させて頂いたことがあります。

韓国社会は、1997年の通貨危機以降、40代で早期退職を迫られることが珍しくありません。

彼は、韓国の4大商社の1つであり、靴販売でトップシェアを誇る大企業に勤め、成果をあげていると自負していました。

しかし、彼が40歳になった時、会社から早期退職勧告を告げられてしまったのです。

「有能だと思っていた自分が、なぜ?」と、かなり動揺してしまったそうです。

その後、再就職を考えながら、また同じ問題に直面する不安が拭えませんでした。

そして、60歳を一つの勝負の年齢にしようと理想像を思い描いて逆算し、「これまでの数十年間で、時間と共に経験した糧があり、この糧を活かす機会がようやく訪れた。この糧のお陰で、1年で10年分もの道を開き広げていける。」と、次の10年、20年の歩みを決意しました。

そして、自分がどうなりたいのか、そのために今何をすべきか、毎朝ノートを持って家を出て、数ヶ月が経ち、同社を立ち上げて、紆余曲折ありながらも現在の規模に至っています。

それでも、ここ数年の世界経済の乱高下は、今まで経験したことがない激しさから、一瞬の休息も許されないほどで、70歳を前にして引退も考えたことがあるそうです。

しかし、創業前後に記していたノートを見返しては、後継者を育てバトンタッチできるまで、80歳を見据えながら更なる高みを目指していきたいと、語ってくれました。

「人生100年時代」のそもそも論

日本では、60歳定年制が、潜在的、顕在的、いずれの年齢感にも大きな影響を与えていると思われます。

「人生100年時代」という言葉を見聞きする機会が増え、健康寿命や老後資金の観点から、70歳、80歳を超えた後も、人生経験を活かして働くことの有用性が、方々で語られるようになりました。

理屈的にはその通りですが、その前に、「もう○○才だから、今から始めるのは遅いんじゃないかな〜」とか、「どうして、○○才の時からやってなかったのかな〜」など、年齢から派生する「疑念」や「後悔」の感情を封じ込め、自分が納得する道を迷いなく前進していく、心の癖を取り入れていきたいものですね。