3つの目標を持つ意義とは

矢 目標

週に一度通っているスポーツジムのランニングマシンは、常に利用者で埋まっています。

近くには大きな公園があるため、私は別日に公園を走っておりますが、スポーツジムでお見かけする方にも遭遇します。

コストパフォーマンス主義

公園でのランニングは、日光や風、木々の匂いや季節の変わり目などを感じ、何より自分の足で地面を蹴って走行しているため心地良く、ランニングマシンでは満足できない方も多いのではないでしょうか。

ランニングマシンは、屋外の寒さや暑さ、雨雪を回避できますし、ランニングの着衣のままウェイトトレーニングが可能になるなど、それ相応の利便性があります。

他にも、最近は利便性とかコストパフォーマンスが強調される事例は、枚挙にいとまがありません。

例えば若年層の男性の中には、コスパが悪いから恋愛や結婚したくないという方が多いと見聞きします。

その方にとって恋愛や結婚は、必ず成し遂げたい「最良」ではなく、そうだったら嬉しいぐらいの「良」という位置付けであれば、コスパで判断するのもうなづけます。

「最良」について

しかし、自分がどうしても手に入れたい、成し遂げたい「最良」に対する視点や対応は、どう考えればいいのでしょうか。

私は、人生の岐路に立った時、いつも困難なほうの道を選んできた。

 

岡本太郎(芸術家)

90年代のテレビ番組で「芸術は爆発だ!」のセリフが印象的だった、芸術家の岡本太郎さんの名言です。

大きな選択を下す必要があるとき、「茨の道を選んだ方がいい」とおっしゃっる偉人は数多くいらっしゃいますが、先行指標としては当たっているのかもしれません。

「最良」という唯一無二の願望、夢、志を求めるご本人は、今の自らを取り巻く状況とは全く違う世界を思い浮かべているため、乗り越える壁が高くなるのは、想像に難くありません。

すなわち、「最良」を実現したいとき、費用対効果とかコストパフォーマンスの視点ではなく、たどり着くための障害をどう克服するかに集中する必要があるのではないでしょうか。

「良」について

一方で、「良」に対しては投資のロジックが賢明な考え方だと思われます。

投資の世界は、投資に対するリターンを指標とし、一般的にハイリスクであればハイリターンに、ローリスクであればローリターンに均衡します。

企業経営も、ヒト・モノ・カネというリソースを投入して、利益というリターンを得ようとする投資活動の側面があります。

個人でも、時間というリソースを投入して、報酬を最大化したいと考える方が少なくないですが、行き着くところは時給換算で幾らという指標です。

コストパフォーマンスとか投資リターンなどの言葉は、耳障りが良く、それなりに説得力がありますが、心が震え、感情が動いたことが出発点であろう、その人にとっての「最良」に相応しい切り口や指標とはなりにくいのではないでしょうか。

「最良」と「良」はメカニズムが異なる

投資は、収益率という定量的な数字で可視化され、複利が前提になりますから、数年後のリターンを予測できます(もちろん、そうならないリスクはありますが)。

これに対して、個人や事業の成長は、当事者がどれほど努力してもすぐに成果が出ることの方が少ないものですし、努力の仕方を間違えて入れば、成果には結びつきません。

働き掛けて、働き掛けて、それでも結果が出ない時間を経て、水がめに水が満ち、急に溢れ出すような現象が起こります。

そのリターンは数%というレベルではなく、数十%、数百%かそれ以上の、予想をはるかに超えたレベルになることが珍しくありません。

私も、何度となくそのような体験を経てきましたし、周りの方の変容を見てきたので、確信を持って申し上げることができます。

投資対象として代表的な金融や不動産などは、市場原理が働く側面があるものの、評価は基礎的事項に準じ、リターンも比例する傾向があります。

これに対して、個人や事業の成長は当初、微動だにしないか低位で推移しますが、あるタイミングから急上昇する曲線を描きます。

すなわち、この2つはメカニズムや時間軸が異なっています。

「最良」の対象とは

では、私達はどんな対象を「最良」と捉えるべきなのでしょうか。

その時々の成果目標の先にある、あるいは上位概念となる、自身の「在り方」ではないでしょうか。

経営学者のドラッカーも、以下のように述べています。

私が十三歳のとき、宗教の先生が、何によって憶えられたいかねと聞いた。

誰も答えられなかった。

すると、「今答えられると思って聞いたわけではない。でも五〇になっても答えられなければ、人生を無駄に過ごしたことになるよ」と言った。

今日でも私は、この問い、「何によって憶えられたいか」を自らに問いかけている。

これは、自己刷新を促す問いである。

自分自身を若干違う人間として、しかしなりうる人間として見るよう、仕向けてくれる問いである。

 

『非営利組織の経営』(P.F. ドラッカー 著、ダイヤモンド社)

3つの目標とは

上記を踏まえると、目標は3つに分けられるのではないでしょうか。

抽象度が高い順に、自分がどう在りたいかという「存在目標」、目に見える形で成し遂げたい「成果目標」、成果に結びつける「行動目標」です。

日頃から目標を意識し、目標を中心に生活する人は、決して多くないと思われますが、そのような方は年収や年商などを始めとした成果目標や、それを実現するための行動目標までは明確にされています。

誤解を恐れず申し上げるならば、数年間、人によっては数十年に渡って目指してきた成果目標を達成してしまえば、その後はさしたる目標を掲げることができずに安穏とした生活を送ってしまいがちです。

その後の生活に、充実や張り合いがあるはずもなく、今を生きている感覚は薄っぺらいものとなります。

ここまで言い切れるのは、私自身、一度目のバイアウトの後に同様の体験をし、周囲にも同じような方がいたからです

そもそも成果目標は、どうしてそれを叶えたいのかという問いとセットのはずですが、多くの方は、金銭的なものや他人の評価などに限定しがちです。

成果目標を達成できたとしても、梯子を掛け違えていたことに気付き、修正するのにまた年単位の時間を要します。

それに気付くのが若い頃であればリードタイムが残っていますが、 年配になってからだと、大きく変更するリードタイムを確保できず、後悔の念を抱きながら残りの人生を過ごさなければなりません。

存在目標の特徴

そもそも「存在目標」なるものは、性質上、10年単位で少し近づいたことを自覚できるかできないかですし、一生掛掛かっても叶えられない目標かもしれません。

なぜなら、「何によって憶えられたいか」に終わりはないですし、社会的にも数々の成果を上げたとしても、最終評価は目に見えるものではなく、自分自身の中でしか判断できないからです。

行動目標が成果目標を達成するための手段であるのと同様に、存在目標に向かう途中で達成する成果目標は、「おまけ」程度の位置付けです。

「最良」を手にするためには、振れない「存在目標」を明確にし、慢心、惰性、疑念などと無縁な自分を作ることに他ならないのではないでしょうか。