当事者同士だからこそ教え合う

父と娘 自己実現

2歳になる娘がおりますが、父親にならなければ知らなかった世界、価値観などがあまた存在していることに、驚きを禁じ得ないことがあります。

ライフステージで変わる認知対象

独身のときは、自分のことだけ考えていれ、生活は成り立っていました。

結婚すると、「パートナー自体」と「自分とパートナーとの関係性」という2つの対象が注意を払うものとして加わります。

子供ができると、これらに「子供自体」、「子供と自分との関係」、「パートナーと子供の関係」という3つの対象が加わり、注意を払うべき対象は「自分自身」も含めると6つに増えます。

こう考えると、均一ではないにせよ6つの対象が「今どういう状態か」、「どのようにより良くしていこうか」という思いが、少なからず脳内から離れないわけですから、相対的にかなりの認知を身内に奪われているといっても過言ではありません。 

人間の認知能力に大差はないようですが、仮に同一であるとするならば、家族構成によって仕事などに投入できる認知量の差が生まれることになります。

認知の対象や投入量が近しい存在

「認知量」というと定量的に把握しづらいため、決して等しいものではありませんが、「時間」という定量的な概念に置き換えて考えると実感が湧いてきます。

子供のその時の感情や気分、体調などによっては、こちらが見積もった時間や計画通りに進まず、限られた時間さえ侵食される「目の前の育児」と「早く対応したい仕事」などとの板挟みになるのは、世の親達に共通する悩みです。

ネガティブな事ばかり書き連ねてきましたが、もちろん子供がいることで、一尺では語れない多様な豊穣さがあり(その内容は他に譲るとして)、仮に可処分時間や可処分認知だけを比較すればこのような話になります。

自分が特有な状況の当事者だと思っていると、 同様の状況にいる当事者と出会うことがしばしばあります。

道端や電車の中で、全く知らない間柄であっても不思議と同士のような感覚を抱くことは言うまでもなく、時にはどちらともなく話し掛け、まとまった会話に発展したことは一度や二度ではありません。

相手のお子さんの月齢がうちの娘より早そうであれば、私から教えを請い、逆の場合は相談を受けたりするなど、この殺伐とした社会の中でそんなやり取りが生まれる世界があることを知りました。

当事者同士だからこそ生まれる関係

具体的な悩みに対して、体験を通じて得た教訓を、相手の状況に編集してお伝えする。

しかも利害関係がない、見ず知らずの人とのやり取りは、不寛容、無関心、自己責任が否が応もなく進行している世の中も捨てたもんじゃないなと、思わせてくれます。

ただ、教えを請う側、請われる側という関係が発生するには1つ条件があります。

それは、子供を連れていることで、一瞬でお互いが当事者であることを認識できることです。

教えを請う側は、自分より早く当事者として経験している相手から、具体的な話を聞きたい。

教えを請われる側は、目の前の当事者に対して、自分が体感してきた獣道の歩き方を教えてあげることで、相手の役に立てる。 

たまたま子育ての話をご紹介してきましたが、ビジネスであろうと、人生であろうと、先に体験した人とそこを目指そうとする人の間には、言葉を発する「物理的な会話」以前に、上記のような「心の会話」ともいうべき内面のやり取りが始まっていると思うのですが、いかがでしょうか。